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「うぃーっす、戻りましたー」
 歯ごたえの無い、それでいて面倒な仕事で埃に塗れた体もそのままにザップはいつもの調子で事務所のドアを潜った。
 少しの疲れと、ここ三日ほどレオナルドと会っていない為のイライラが静かにザップの中で蓄積していく。
 見慣れた光景の中に、今日もレオナルドは居なかった。
 それどころか少しだけ重い空気。
 ソファにはツェッドの他にK.Kの姿もある。
「珍しいっすね、姐さん」
「お疲れ、ザップっち」
「お疲れ様です」
「陰毛頭はどうした?」
 ジャケットの埃を軽く叩きながら距離を取ってザップはどさりとツェッドの隣に腰を下ろした。
 いつもならこの間にレオナルドがいる。
 ザップはこの妙な空気の正体が自分の考えている事と違っていて欲しいと願った。
「レオ君は――」
「ザップ、戻ってたのか」
 何かを言いかけたツェッドの声を遮って扉が開く。
「あ、スターフェイズさん、旦那、お疲れさまっす」
 軽い口調でいつもの様に声を掛けるが、二人はやや神妙な面持ちだ。
「レオ君は?」
「ああ。命に別状はないらしいがあれは少し完治まで時間が掛かりそうだ」
「……レオの奴、どうかしたんすか?」
 低く、ザップが尋ねた。
 黒い思いが渦巻く。
「少年だが今日ちょっと任務中に負傷してな。我々は今病院から帰ってきたところだ」
「え……」
 ザップの表情が一気に変わる中、K.Kがフォローを入れる。
「大丈夫よ、ザップっち。運ばれる時も意識あったし、重症ってわけじゃない――」
「っ、魚類!てめぇ一緒に居たんだろうが!どうなってんだ!」
 聞く耳を持たず。ザップはツェッドの胸倉に掴み掛かり、鋭い眼光と剣幕で捲し立てた。
「痛いです!やめて下さい!僕だってレオ君を助けられなかったのが悔しいんです!」
「ザップ、少し落ち着くのだ」
 今にもツェッドに噛み付かんとするザップの両肩をクラウスは後ろに引いて、浮いた体を無理矢理ソファへと戻した。
「少年は無事だ。外傷も少ない」
「じゃあなんで完治まで時間がかかるんすか」
 キッ、とザップはスティーブンにすら敵意の視線を向けた。
 自分が居ない時にだけはこういう事態を避けて欲しかったのに。
 もちろん、心の底から周りのメンバーが悪いだなんて思ってなどいない。
 この仕事に、この街、何があっても不思議ではないから。
 しかし自分がその場に居たらもっと何か出来たのではないかとザップはどうしてもぐるぐると考えてしまう。
「今回ちょっと内臓を痛めてしまってね。そっちの方で時間が掛かりそうなんだ」
 ひゅっ、と本当に微かな音の後にザップは立ち上がった。
「病院何処っすか……」
 居所を聞くや他にやることが無いかを確認すると、ザップは矢の様な速さで事務所を出て行く。
 その事に誰も何も言わない。
 二人の関係は口外されているわけでも何でもないが、嫌でも見ていれば全員が気付く程だった。
「あいつ……」
「……僕は謝った方がよかったのでしょうか?」
 ぽつりとツェッドは言葉を落とした。
 ランチや任務で三人は一緒に居る時が多い。
 だから必然的にどちらかがレオナルドの護衛、というポジションになっている。
 今回はザップが別の任務ということで、レオナルドに怪我を負わせてしまったのは自分の所為であるとツェッドは自分を責めた。
 しかし今のザップはレオナルドと恋人関係にある。
 そうなると任務では大事なパートナーを預かっているという事になり、何かあれば申し訳が立たないとツェッドは思った。
「いや、そこまで気にする必要はないと思うぞ。この仕事でこういう事はごまんとある」
「スカァァァァァフェイス!!アンタって本当に冷徹!!」
「う……しかしK.K、四六時中一緒に居られる事の方が難しいぐらい君にも分かるだろう?」
 間髪入れずやってくるK.Kの返しをスティーブンは受け流しながらも苦々しく諭した。
「……」
「大丈夫よ」
「だと、いいのですが……」
「ツェッド、何か気掛かりな事でもあるのかね?」
「いえ……ただ、何時になく兄弟子が必死だったので」
「まあ、無理もないわよね。自分の与り知らない所でレオっちが病院送りなんて事になってたら」
 そう言うK.Kの言葉を聞きながらツェッドは「またそれとは違う何かを感じた」とは言い出せなかった。
 確かにザップはレオナルドの事を心配している様だったが、何か、何かが違うのだ。
 それが何なのかツェッドは見つけられないまま、苦々しい思いでザップの出て行った扉をちらりと見やった。


 足早に、不本意ながら勝手知ったる病院内をザップは速足で移動していた。
 時刻は夕暮れ時に差し掛かろうというところ。
 平日という事もあって、人は疎らだ。
 時折顔見知りのナースに「あら、またどっか怪我でもしたの?」と笑いながら聞かれるのを「今日は生憎ピンピンしてらぁ」と軽いノリであしらい、ザップはレオナルドの部屋を目指した。

 音も少なく部屋に入る。
 個室ではない。特有の空気が漂うやや重篤寄りの患者が多い部屋で、静かだった。
 ただ、『静か』というには語弊がある。
 部屋には機械音だけが響いているのだ。
 ザップ自身、病院特有のこの静けさは好きではなかった。
 ベッドの位置を確認して、そっとカーテンをすり抜け横になったレオナルドの元へ。
 言われた通り外傷は少ないらしく、見た目には頬に絆創膏が貼られているだけだった。
 ただ、点滴の柱を見ると大きなパックが幾つか吊るされており、それが腕へと伸びている。
 この街の情勢から言うと命があれば万々歳だ。
 しかしザップの内心は手放しで喜べる様な状態ではない。
「っ……ザップ、さん……?」
 細い声で来訪者に気付いたレオナルドが名を呼んだ。
「レオ」
「すみません……ツェッドさん、カバーしてくれたんですけど……」
 ザップは無言で、レオの絆創膏がある頬とは反対のところにそっと優しいキスを贈った。
「無理に喋んな」
 たった三日ほど会わない間にレオナルドは随分やつれた様に見えた。
「……何て顔してんすか。俺なら大丈夫っすよ」
 レオナルドはザップを安心させる様にぽつぽつと言葉を紡いでいく。
 きっと自分では気付いていないのだろう、ザップは何とも言えない顔をしてレオナルドを見つめている。
 色素の薄い瞳は澄んでいるが今にも揺らぎそうだ。
「内臓がダメになってて大丈夫じゃねぇだろ……」
 くしゃりと表情を歪ませてからザップはレオナルドの枕元に頭を落とした。
 見方によっては懺悔をしている様にも見える。
 まるで『自分が守ってやれなかった』とでも詫びる様に。
 細くて覇気の少ない声でレオナルドは続けた。
「ザップさんは大丈夫でした?」
「……あたりめぇだろ。俺を誰だと思ってやがる」
「……なら良かったです」
「よかねぇよ……」
 ザップには経験がある。
 痴情のもつれも多いが、こんな仕事をしていれば様々な怪我で入院する事もあった。
 外傷はリハビリや痛みがキツイが、慣れてしまえばまだラクなものだ。
 しかし内臓の損傷は見た目に反して長引く事も多く、回復するまで弊害も付きまとう。
 特に思うように物が食べられないケースに陥る事も少なくは無く、ザップはその辛さを知っているからこそレオナルドの身を案じた。
 自分は牙狩りで、ライブラで、戦う戦士だ。
 だからそんな辛さにももう慣れてしまっている。
 しかしレオナルドにはそんなものに慣れて欲しくはない。
 レオナルドはいつだって目がいいだけのただの一般人でいて欲しい。
 だから極力ザップはレオナルドが病院の世話になるのを阻止したくて陰に日向に奮闘していたのだ。

**********

 ザップの心配していた通り、レオナルドは固形物が食べられなくなってしまっていた。
 一般病棟に移るまでの二日程は点滴のみ、その後は缶入りの栄養剤。
 チューブは幸いも通さなくて済んだ。
 この次はペースト食だろう。
 これらの不味さをザップも身を持って経験した過去がある。
「不味いだろ」
「まぁ、しゃーないっすよ」
 多少は顔色も良くなって、受け答えもハキハキ出来るぐらいには回復している。
 誰に頼まれるでもなく、レオナルドが入院してから毎日ザップは病院に顔を出していた。
 忙しさや金欠から食いっぱぐれるような生活を送る人間にとっては入院時の食事は量や味付けなど文句を言いたい事もあるが、それでも三度出されるそれが細やかな楽しみの時も多い。
 しかし、内臓を悪くして満足に食べられない時の、あの細やかな楽しみも打ち壊された様な暗い気分は形容しがたい。
「明日からペースト食に切り替えて貰えるみたいなんでまだマシっすよ」
 せめて気分が紛れればと食事の時間にわざわざザップは出向いて話をする。
「でもよ、ペーストは見た目食欲無くなるし、びっくりするぐらい味しねぇぞ」
「病院食が薄味なのは知ってますよ。ザップさん程じゃないかもですけど、経験済みだし。缶の栄養剤よりペーストの方がきっと薄味でもマシですよ。しかもちゃんと三回食事が出来るんですよ」
 嬉しそうに話をしているが空元気なのはザップから見て丸わかりだった。
 安静を余儀なくされて、楽しみの食事が固形物でないのは辛い。
 きっとレオナルドは二日もすればペースト食がただの『栄養源』であり『空腹を満たす』だけの物となってしまうだろう。
 本来食事とはそういうものだが、それでは余りにも悲しすぎやしないだろうか。
 ザップは修行時代、それこそ食べる事はエネルギーを補給して、空腹を満たすものでしかない場面も多かった。食べなければ死に直結するのだ。
 それでも美味いと思える物はあったし、きちんと食べられる機会があればそれを喜んだ。
 そこから食べる楽しみを知った。
 最近は、一人で食べるより誰かと食べた方が美味しいという事も知った。
「まぁ、無理せずに気長に頑張れよ。ここ、経費で落ちるだろ?」
 あまり長引いて欲しくはないが、ザップはレオナルドが無理をするのだけは見たく無いのだ。
「そうっすけど……あんたね……経費だからってズルズル入院してたらスティーブンさんに怒られますよ」
「わーってるよ。そんな事出来ねぇって。俺も経験あっから」
 冗談を言いながらも内心は何とかしてやりたいと思うザップであった。

**********

「ねぇザップ、このところ元気ないみたいだけどどうしたの?」
「ん?そんな風に見えるか?」
 葉巻を噴かす間すらレオナルドの事を考えてしまっているザップの様子がおかしいとそれなりに付き合いのある愛人は感じ取る。
「見える見える。それにここんとこ来なかったのにやたらとウチに来るじゃない。可愛い後輩くんはどうしたのよ?」
 そこまで見透かされていてはザップも隠し通す事は出来なかった。
 女はとても怖い生き物なのだ。
 そうは言いながらも多少気心の知れた愛人に後輩が入院して具合が悪く、満足に物が食べられていない旨をぽつりぽつりと打ち明ける。
 愛人はザップを笑おうとはしなかった。
 何とか体に障らない程度に少しでも美味しいと思える物を食べさせてやりたいと常はやんちゃなチンピラが言うのだ。なんとまあ可愛い事か。
 そしてひとしきり話を聞いて、ザップに助言をする。
「まあ、自分が具合の悪い時に何食べてたかよね。例えば、子供の頃風邪を引いた時だけ食べさせて貰った物とか。病院に無断で持ち込んだら怒られるかもしれないけど、そういう物を持って行って食べさせてあげるとかいいかもよ」
 そう言われてザップは葉巻を噴かす事も忘れて考える。
 自分の子供の頃なんて修行以外ほとんど記憶にない。
 食べる物も思い起こせばあの動物は美味かっただの、あの木の実はヤバかっただの、この街で手に入るような物はないし、病人には消化が悪すぎてろくに食べられないレオナルドには到底無理な話であった。
 具合の悪い時は眠る以外なく、そういえばココナッツは『飲む点滴』と言われていた事を思い出す。
 でも、違う。それじゃない。
 もっと何かあったはず。
「ちょっと、吸わないなら葉巻置いてよ」
 動かなくなったザップに愛人は灰皿を差し出した。
「お、わりぃわりぃ」
「思い出さない?」
「んー……」
「あたしはさ、ミルク粥かな。シナモンとか入れると美味しいの」
 一言、発した途端ザップは俯せにしていた体を勢い良く起こした。
「びっくりした……」
「それだ!ったく、お前はいつもイイ女だぜ!」
 ザップは何かを見つけた子供みたいにはしゃいで笑ってヒントを投げた愛人にハグとキスを贈った。
 

 愛人の家を飛び出して朝もやの中を行く。
 何を勢い付いたのか慌てて出てきてしまったザップはふと葉巻の大半を吸い残してしまったと思い出したが、それが悔しいとは微塵も感じなかった。
 少し頭も冷えたところで思考を再開する。
 自分が動けないほど具合を悪くした時、「不甲斐無い」と一度はその弱さを叱りながらも師は何処からともなく米を調達して温かい食べ物を食べさせてくれた。
 物凄く酸っぱい木の実みたいなものと、少し甘い米のそれがジャパンのごくごくシンプルな『粥』だと知ったのはかなり後だ。
 試しにスマートフォンで検索するとあちらでは今も弱った胃を労わる為や病院食、離乳食等として食べられているらしい。
 詳しく調べていくと自分が師から与えられた物は『全粥』と呼ばれるものだそうで、病院食の粥はその他にも七分、五分、三分と段階があり米の量と水分で柔らかさを調整しているそうだ。
 そういえばチャイナタウンでは朝食として具材の入った粥も見かけるなと記憶を辿る。
 これならあんな薄味のペースト食より美味しいのではないか。
 とりあえずまずは自分で作って食べてみよう。
 今日は会合もない、となればまずは料理の上手い愛人をアドレス帳からピックアップ。
 その中から自分の話を真面目に聞いてくれそうな子……と、どんどん候補を絞っていく。

 ザップが候補として絞って訪ねた愛人は予想通り事情を笑う事なく「珍しい事もあるもんね」と丁寧にレシピサイトで分かり易い物を見繕ってくれる。
 寝床を共にしなくとも話し相手をするだけで満足する愛人は多いのだが、ザップが自らそういった事以外でやってくる方が興味深いのか、母性本能を掻き立てられるのか、今回の様な時は皆どことなく優しい。
 この愛人は歳がかなり離れているという事もあり、専ら弟を可愛がる様にザップを愛でた。
「一緒に作ってあげたいけどうちには米が無いからすぐには出来ないわね~」
 マーケットが開くまでにはまだ時間がある。
 二十四時間営業の所でも最近はアジアの食料品も置かれてはいるがやはりそれなりの所へ行った方が取り扱いの種類も多く、選択肢が広いと彼女は言う。
「米なんかどれでも一緒じゃねぇの?」
「違うわよ!そういう事言うと人によっては物凄く怒るから気を付けなさい」
「お……おう」
「リゾットとかに近いんだと思うんだけど、レシピ見る限り物凄いシンプルだから素材が良くないと美味しくないと思うの」
 全く分からないザップは適当に相槌を打つ。
 すると呆れたように「日本食にハマってる子がいるから連絡先教えてあげる」と告げられた。
「一度一緒に飲んだからあんたも会ってる筈よ。まぁ、かなり酔ってたからあんまり覚えてないと思うけど」
 連絡先を受け取ると、礼のキスとハグをして飛び出そうとするザップに「上手く出来たら食べさせてね」と言えばそれはそれは可愛い笑顔で返事をするものだからやっぱり放っておけない男だと愛人は苦笑して彼を送り出した。


 ランブレッタを走らせながらザップは上機嫌で紹介された女性の元へと移動する。
 明るくなり、動き始める街と合わせて自らの気分も高揚していく。
 既に眠気も飛んでいるので夜遊びをして気怠い朝とは大違いだ。
 誰かの為に何かをすると心地が良いというのはつい最近知った。
 ただ、礼を言われるのにはまだ慣れてはいない。

 
 訪ねた女性は紹介してくれた愛人とも歳が近いらしく「飲み会で見かけて気になってたのよ」と一目でザップの事を気に入った様子だった。
 部屋にはルームシェアの仲間がいるらしく、突然の訪問ではあったが先の愛人が連絡を入れていたので嫌な顔もされず、それどころか褐色のイケメンがやってきたとあってはしゃいでいた。
 彼女はルームシェア仲間の内で一番年上らしく、ベタベタとザップを触る年若い子達に「また今度構って貰いなさい」と言って聞かせる。
 その言葉にはしゃいでいた彼女たちは可愛らしく「はーい」と返事をして「また来てね~」「アドレス置いてって~」と口々に部屋へと戻って行った。
 ザップも伊達にヒモスキルがある訳ではないのでそこはごく自然に「おう」「またな」「今度デートしようぜ」と見送っていく。
 落ち着いた所で本題に入ると彼女も「米を全部同じとするのは間違い」と指摘した。
「まあ、口うるさく言うのはこのぐらいにして、朝食まだなら食べてみる?今はわざわざ生米から調理しなくてもレトルトで手軽に食べられるわよ」
 と、キッチンの戸棚から小さなアルミパウチを取り出してザップに見せた。
 レトルトというのはザップにとって盲点だったが、『じゃあこれを買って行けば良い』という結論には至らなかった。
 食べてみると二つ返事で伝えれば、ザップの他の愛人達同様に彼女も可愛い年下の弟を餌付けでもする様に直ぐレトルトの粥を湯煎してくれる。
 待つ間はピロートーク同様、相手を飽きさせない会話をするのはザップに取って息をするようなものだった。
 暫くして茶色い陶器の椀と共に出された白い粥をスプーンで一口。
 ――ああ、確か師匠が食わせてくれたのもこんな味だったな。
 頼りない食感だが何も食べる気が無い時には流動食宜しく、このぐらい柔らかい方が良い。
 何となく昔を思い出しながらゆっくりと食べていると声を掛けられて、椀の中にころりとワイン色をした丸いシワシワの何かが落とされる。
「これ、うちで漬けたウメボシよ。これを入れると美味しいんだから。初めて人にはちょっと酸っぱいかもしれないけど。ちょっと崩してから混ぜて食べるといいわ。種は硬いから食べちゃダメよ」
 言われた通りにスプーンで押すだけで崩れるそれを混ぜてザップは恐る恐る口に運ぶ。
「うぇ!酸っぱ!」
「あはは!そうよね!慣れてない人はそうなるわよね!でもどう?酸味と塩分でお米が甘く感じない?」
 半分揶揄われたと思いながらもザップは確かにこの方が味の無いに等しい米が甘く感じられると納得したと共に、確か師が食べさせてくれた物に入っていたのもこれではないかと記憶を辿る。
「あー……昔食べさせて貰ったのこんな感じがするわ」
「そう?」
「で、やっぱりレトルトと自分で作ったやつは違うのか?」
「そりゃそうよ。レトルトは日持ちをさせる為に添加物が入ってるし、なんて言うか独特の匂いがするのよね。嫌って程ではないんだけど。断然自分で作ったやつの方が美味しいわよ」
 やっぱりそうなのかと考えながらザップは残りを平らげた。
 酸っぱい梅干しも昔とはいえ食べた事があるし、初めてではないので慣れればそう不味くもなかった。
「しかし梅干しは病人にはちょっと刺激があるかもなぁ……あいつ今食えねぇからなぁ……」
「あら?作って食べさせるの病人なの?食事制限されてるなら梅干しは塩分が強いからやめた方がいいかもね」
「でもよ、それだとすげー味ねぇじゃん」
「塩を入れるから甘味は感じるわよ。それなりにいい米だと米そのものに甘味もあるし、ちょこっと味を付ければ意外といけるのよ。お出汁をちょっと混ぜるとか。ジャパンだと季節の野菜を混ぜたりもするのよ」
「へぇー色々あるんだな」
 何でもその道に詳しい人間に尋ねれば面白い程知識を披露してくれる。
 自分にあまり有益でない情報ばかりを話されると正直眠いだけだが、この時ばかりはザップも興味津々で、相手の話を聞いた。
 熱心に話を聞いてくれる年下のイケメンに彼女も悪い心象を抱く訳が無く、他にも卵を混ぜた物や小豆という豆を混ぜた粥もあると教え、口に合わない様ならいっそリゾットの様に他国の味を付けるのもありだと説明する。
 最初はシンプルで控えめな味付けにして、食べられる様になってきたらそれに合わせて味付けや具を変えてアレンジしていけばいいとザップにアドバイスをした。
 そして温かいまま届けたいのならとフードコンテナまでプレゼンテーションする。
 まだまだ世の中には自分の知らない事があるなとザップは子供の様に興味津々で話に耳を傾けた。
 話にしろ、技術にしろ、吸収する力は存外ザップにはあるのだ。
 レオナルドに不味くなくて体に良い物を食べさせてやりたいと思い立ってから早数時間、とんとん拍子でザップは知識を得ていく。
 講義もそこそこに女性に礼代わりのキスを贈ると「また来てね」と艶のある声で彼女はザップを誘った。


 今日はレオナルドの所へ行くのはお昼を過ぎてしまうかもしれない。
 予めその旨を連絡すると当人は『そんな毎日来なくても大丈夫っすよ』と返事をするがザップが訪れると途端に顔を明るくして笑うものだから放っておけない。
 ザップにとってレオナルドは初めて出来た身近な可愛い後輩であり、同時にお兄ちゃん気質の芯があるカッコイイ恋人なのだ。
 気に入った人間には惜しみなく世話を焼くのがザップの愛情表現で、自覚は無かったとしてもそれは実のところ色々な人になされている。

 教えて貰ったアジア圏内の食材を多く扱うマーケットに着いたのは開店時間丁度ぐらいだった。
 スマホに登録したメモを片手にいざ、という時よく聞いた声に呼び止められる。
「ザップっちじゃない!どうしたの?珍しいわね」
 それは纏う空気とトレードマークとも言える真っ赤なコートではない為一瞬分からなかったが、仲間であるK.Kだった。
「姐さん。はよっす」
「おはよう」
「やあ。おはよう」
 軽く手を振ってK.Kの夫であるユキトシは微笑む。
「どうも」
 ザップはきちんと話をした事こそ無いが、街でK.Kと一緒に会う事があり、会釈で挨拶ぐらいする程度にはユキトシとは顔見知りだ。
「今日は二人で買い物っすか?」
「ええそうよ。ザップっちは?」
「えっと……」 
 咄嗟に言い訳が出てこない。
「ザップっち、アンタ今適当に嘘つこうとしたでしょ?」
 まごついているとK.Kに痛い所を突かれる。
「そもそもこっちの方のマーケットって特殊な物多いからそんなに安くないし、何か探しにでも来たの?」
「まぁ、そんなとこっす……」
 サングラスをしているK.Kだが、ついその視線から逃れたい一心で目線を外してしまう。
 余計に怪しまれるとも考えずに。
「もしかして、レオっちの事で何か探しに来たの?」
「う……それは……」
「アンタってそういう隠し事下手ね。良かったら聞いたげるわよ。話して御覧なさい」
 鋭い指摘だったが、K.Kは苦笑してやんわりとザップの頭を撫でる。
 こんな態度でいるのはきっと自分の物を探しに来たのではなく、誰かの為のものだろうとK.Kは察する事が出来た。
 K.Kがザップを見てきた年数の賜物だ。
 観念してザップはやや恥ずかしそうにレオナルドが今満足に食べられない事、過去に自分もそれを経験した事、それを少しでもどうにかしたくて自分なりに考えた事を普段からは考えられないような小さな声でぽつぽつと話した。
 その間にK.Kはどんどん頬を緩めていく。
 大事な者の為に何かをするという事を覚えたザップをぎゅうぎゅうに抱き締めて褒めてやりたい。
 しかしあまり弄ると可哀想なのでそれはまた別の機会にしてやろうと、K.Kは衝動を心に留めた。
「それでここへ来たのね。折角ユキトシもいる事だし、よかったら買い物に付き合ったげる」
 気を遣って「邪魔すると悪いから」などと言いながら後ずさりしようとするザップをK.Kは有無を言わせず捕まえてマーケットの中へ引きずり込む。
 今思えばK.Kの夫であるユキトシはジャパニーズだ。
 最初からこの人に聞けば良かったのに、頭が回っていなかったのはザップらしい。
「あ……なんか、すみません」
 ぐいぐいとザップを引っ張っていくK.Kを微笑ましそうに見るユキトシと目が合い、反射の様に彼は謝った。
 もちろんユキトシは謝られる様な事は何も思っていなかったので気にすることはないと一言返した。
 それよりも自分の妻であるK.Kが度々話していたこの青年がどうして彼女のお気に入りなのか見ていて分かったのが楽しくて堪らない。
 ユキトシは今度家に招待したら来てくれるだろうかと考える。
 何とも奇妙な取り合わせの三人は店の奥へと入って行った。

 二人はあれやこれやと自分たちの買い物ついでにザップへ懇切丁寧に必要な品物の種類や特徴を教えた。
「まあめちゃくちゃ高い物が良いとは限らないから、このあたりで大丈夫。水を軟水に変えれば十分美味しいのが出来るよ」
 放っておいたら一番高い米を買いそうだったザップに幾つかのラインナップから中間価格帯の物を渡した。
「あざっす。でも水変えると変わるんすか?軟水で?」
「日本の水は軟水なのよ。だから、その土地の食材に合った水に変えると美味しくなるわけ」
「へぇー」
 頭ごなしに言われるのは反発したくなるが、丁寧に教えてくれる人間の話をザップは一応聞くのだ。
 それから少量しか必要のない物は分けてあげるからまた今度何が欲しいかメモでもしておく様にK.Kから言われる。
 確かに、後々使うかも分からない物を買う程余裕も無い。
 しかしこの件でK.Kで何度も世話になってその度に弄られるのも中々辛い。
 だから幸いにも今回ザップは少しだけギャンブルで儲けた金を持っていたし、レオナルドの一件を話した事で愛人からの小遣いも多めに貰っていたのと、二人のアトバイスで必要最低限の出費で済んだ事もあり適当に理由を付けて離脱を試みた。
 が、K.Kが離してくれず更にはフードコンテナはここで買わない方がいいと言われて安い店をハシゴする事になってしまう。
 さすがのザップもどうにでもなれという言葉が浮かんだ。


「え?」
 ぽかんとするザップにK.Kとユキトシは笑顔で述べた。
「だから、これ。レオっちのお見舞いって事で買ったげる」
 そう言って見繕ったフードコンテナを何故かK.Kは二つ持っている。
 色はネイビーとホワイトで、K.Kが手ずから選んだ物だ。
 空気的には『有無を言わせない』と滲み出ているが。
「いや……でも何で二個なんすか……」
「アンタの分よ。いるでしょ?」
「いや、要らないですって」
「多めに作って一緒にレオっちと食べたり、事務所でお裾分けはしてくれないのかしら?」
 呻くだけでザップは二の句が告げない。
 この展開はまずい。
「私もザップっちの作ったお粥食べたいわ」
 無言の圧力とも言えるK.Kの言葉にザップは汗が滲み出る。
 フードコンテナの値段はそこそこするので、そりゃお見舞いとしてタダでくれたら懐は痛まなくて済む。
 済むが、この流れだとK.Kに御馳走しなければ怖い事になりそうで。
「ねぇ……彼固まっちゃったよ」
「ちょっとぉ~、そんなに考えなくてもいいじゃない!はい!もう決めた!レジ行くわ!」
「え!?あ!ちょっと姐さん!?」
 そのまま品物を手に持ってずかずかとK.Kは行ってしまった。
「あーあ、行ってしまったね……彼女、こうなると一歩も引かないから……」
「……知ってます……」
「なら素直に聞いておくべきだね」
「…………はい」
 親切心でやってくれているのは分かるので、無下には出来ない。
 出来ないが、面倒な事にはなる。
 脱力するザップの肩にユキトシはぽんっ、と手を置いて押し切られてしまった事を静かに慰めた。
 長い物には巻かれろ。
 そうなのだろうが、自分は巻かれると絞殺されそうな面々との付き合いが多い為、イマイチ素直に従う事が出来ないのだった。
 程なくしてK.Kは笑顔で戻ってくる。
「まあ、さっきは悪かったわ。私には気が向いたらでいいから、まずはレオっちに美味しいのを食べさせてあげるのよ」
 そう言って紙袋が差し出された。
「すんません……」
「ザップっち、違うでしょ?」
 サングラスで表情は見えないが、下がった眉が呆れている事を表していた。
 ありがとうが素直に言えないザップにK.Kは度々こうやって促すのだ。
 母が子供に教える様に。
「あ……えっと、ありがとう……ございます」
 大の男が言うにはあまりにも小さな声だった。
 尻すぼみになる礼にユキトシは隣でやり取りを聞きながら苦笑する。
 いつも遠巻きや通りすがりに会釈をする程度なので初対面も同然なのだが、普段は素行が悪いらしい彼の、憎まれない人柄を知るには十分だ。
 なるほど、やんちゃなところが落ち着いていないだけなのかと納得した。
「はい、よく言えました。で、よかったらウチで作る?」
「いや……それは……」
「じゃあ何処で作るの?事務所?それともどっか……知り合いの所?」
 夫であるユキトシがいる手前、愛人の所なのかとも大っぴらに尋ねられず、少し間を置いてからK.Kは『知り合い』という言葉を選んだ。
「これからレオんち行こうかと思ってるんで。ほら、あいつ帰ってねぇしあんまり家開けるとまずいだろうし様子見てきてやんねぇと」
「そう、じゃあここで解散ね」
「残念だ。せっかくだから昼食かコーヒーでもと思ったのに。でもよかったら今度ウチにおいいで。君なら大歓迎だよ」
「はい……機会があれば」
 たどたどしくそう告げて会釈をするとザップはやや逃げるような足取りで二人の前を後にした。
「ちょっと強引過ぎたかしら?あの子、あれぐらい押し切らないとなかなか人の好意を受け取ろうとしないから」
「そうだね。そんな感じみたいだね。それにしても君が話してた彼、どんな子かと思ったらかっこ良くてなかなか可愛いじゃないか。後輩思いだし」
「あら?分かってくれた?」
「短時間だったけど大体分かったよ。彼、子供なところが抜けてなくて、でも年齢が大人だから背伸びしてるって感じだね」
 ユキトシの鋭い観察力をK.Kは心で称賛して「さ、デートの続きしましょ!」と腕を組むのだった。


 材料は揃ったのでザップはレオナルドの家へ迷うことなくランブレッタを走らせた。
 足元のコンビニフックに掛かっている紙袋を贈ってくれた二人には感謝している。
 が、どうしてか素直に礼が言えなかった。
 K.Kの言う通り、ここまで付き合って貰ったのだから礼をするのは当然だと思ってはいる。
 しかし夫が良いと言ったところで子持ちのK.Kの家へ直接行く勇気など無いし、事務所に持って行こうものなら他のメンバーから弄られ倒すのは目に見えていて、ザップはそれが煩わしかった。
 弄られる要因は分かっている。
 自分の素行の悪さが全て悪いのだ。
 だから「あの銀猿が料理ね」と言われ、「明日は槍が降るか?」とか「何処かで頭でも打ちましたか?」とかきっと言われるのだ。
 でもそれを気にして更生するつもりは微塵も無い。
「あーもう考えるのはやめだ!」
 自分はレオナルドに粥を食べさせたい。
 今はただそれだけで動いている。
 

「邪魔すんぞー」
 貰った合鍵は何処かに置き忘れてしまった為、せめてドアを壊さない様に譲歩して血法でピッキングをした。
 声を掛けても当たり前だが返事は無い。
 買ってきた材料は冷蔵庫に入れる様な物がないので適当にテーブルへ置いて、まずは窓を開ける。
 ほんの少しの期間でも部屋の住人が留守にすると部屋が埃っぽくなるのは自分の何もない寝床もそうだからだ。
 そういえば最後にあの部屋で寝たのはいつだろうか。
 換気をしながらベッドに腰掛け、葉巻を一本取り出してザップはゆったりとした手付きで火を着ける。
 ベッドサイドのテーブルにはザップの為にレオナルドがディスカウントストアで買ってきた灰皿が置かれていた。
 寝煙草をうるさく言うクセに灰皿の定位置がそこなのだから笑える。
 それを手繰り寄せて住人の居ない部屋を見渡せば、自分のジャケットを掛ける為のハンガー、マグカップ、スリッパに、大きな物に買い替えたランドリーバスケット。
 駆け込み寺みたいにアテが無くて転がり込む事が多くなり始めた頃から、少しずつ物が増えていったなとぼんやり考える。
 レオナルドの部屋なのに自分のいる気配が至る所にあるのがザップは可笑しくてならなかった。
「俺、愛されてんなぁ」
 ここにある物は別に要求したわけでもないのにレオナルドが買ってきたのだ。
 来る度に「はいどうぞ」と必要な物を差し出してくる。
 『しょうがないな』という顔をしながらもまたザップがやって来るだろうと。
 そうやって備品が増えて居心地が良くなるもんだから部屋へ来る回数も増えてくる。
 だから気付いたらこうなっていて……
「あー……やめやめ」
 考えていたら段々と顔が火照ってきた。
「らしくねぇ」
 さっさと粥作りをしよう。
 何かしてたら忘れられる。
 灰皿に葉巻を軽く押し付けていたら何やら窓辺に残像が見えた。
「おめぇ何処行ってたんだ?」
 ザップの太ももにちょこんとやってきたのはソニックだ。
 全く姿を見なかったわけではないが、レオナルドの傍にずっと居たわけでも無かった。
 元々野良の音速猿が人に懐いている時点で珍しいのだから、ソニックが自由気ままに街中を駆けまわっても何ら不思議な事はない。
 ザップがぐりぐりと頭を弄っていると不意に冷蔵庫の上へ移動してその扉を小さな手でパシパシと叩く。
 なるほど、窓が開けられていなかったからここで腹ごしらえが出来なかったのかと納得したザップはさして大きくない冷蔵庫を開けた。
 一本だけぽつんと残されていたバナナはいつ入れたのか分からないが、かなりドス黒くなっている。
 ソニックはそれを見てショックを受けているのか情けない鳴き声を上げた。
「待てよ、剥いてみねぇと分かんねぇだろ?」
 皮を剥くと所々変色はしているがまだじゅくじゅくにはなっていない。
 それが見えるとソニックはザップの手からそれをひったくる様にテーブルへ持ち去った。
 一心不乱にバナナを齧るソニック。
 そんなに腹が減っていたのだろうか。
「あ、そうか」
 考えてみればいつもレオナルドにくっついているが最近は病院以外で見る事が少ないと思っていた。
 事務所で見かける事が無いのはレオナルドが出入りしていないからだ。
 となれば餌にもなかなか有り付けなかったのでないだろうか。
 元から人間にべったりしていたわけではないから死ぬほど食いっぱぐれる事は無いだろうがライブラには術式で内部が守られている為、そう簡単には侵入出来ない。
 それは何もしなくても食べられる環境にはないという事だ。
「おめぇ犬女や俺にくっついて事務所出入りしときゃ何かしら食べれるだろうが。アホか」
 がさがさとザップはテーブルの上にある紙袋を漁る。
 自分が食べたくてついでに買ったシリアルバーを三分の一ほど折って封を開けたままソニックの傍に置いた。
「全部食うなよ」
 平気で人間の食べ物を食べているので大丈夫だろうが、食べさせ過ぎて具合が悪くなっては自分が非難される。それだけは勘弁して欲しい。
 それにこれから作る粥は三分粥だ。
 写真を見ると何かの上澄みみたいなそれはおおよそ食べ応えが無さそうだし、音速猿の腹にすら溜まりそうにないからこれぐらいしか今は食べさせるものが無かった。
 それでも必死で食らいつくソニックを見ているとやはり食べる事は生き物にとって共通の楽しみであり生存する為の手段なのだなとザップは考える。
 だったら早く買ってきた食材を調理してレオナルドの元へ行こう。
 当初の目的を再確認してザップは勝手知ったるキッチンへと向かう。
 必要な物を探すも、片手鍋とフライパンとポットぐらいしか見つからずこの部屋へ来る途中にディスカウントストアでザルとボール、それに計量カップを買ってきて正解だったと内心ガッツポーズを取った。
 しかし、同時にそれだけここのキッチン事情も知ってしまっているのだと再確認するはめになり途端に顔が熱くなる。
 落ち着けと言い聞かせて顔を手で扇いでから、暑いついでにジャケットを脱いでベッドへ放り投げ、作業をすれば余計な事を考えずに済むから早く支度に取り掛かろうとザルやボールを取り出して、シャツの腕を捲る。
 フードコンテナは洗ってから水切りカゴへ。
 計量カップで計った米をザルに入れて、軟水のボトルを開ける。
 米は最初に吸う水が肝心なのだと日本食に詳しかった女性はザップに教えた。
 研ぐ前に良い水を少しだけ吸わせると良いらしい。
 話を聞いた時は面倒だとは思ったが、少しでも美味しくなるなら努力は惜しまない。
 軽量カップに少しだけ注いで、ザルの中の米に回しかける。
 本当にこれは意味があるのかと思いながらも繊細な料理というものは手間を惜しんではいけないのだろうと自分を納得させた。
 なるべく米を潰さない様に研いでいると、ソニックが肩口へ飛び移ってくる。
 何をしているのか気になるだけで悪さをしようとはしない。
 確かレオナルドがキッチンで火を使う時などは口うるさく危ないと教え込んでいたなとザップは思い出す。
 なのでソニックにとってはここで作業している時は悪戯や手出しをしてはいけないと分かっている様だ。
「キィィ?」
「これはレオのだぞ。まぁ、味見すっから分けてやるけどよ」
 片手鍋に研いだ米を移して、スマートフォンでレシピを確認してから水をきちんと計量する。
 この手の料理は分量を守らないと失敗するとユキトシからはそれとなく言われていた。
 几帳面そうな彼のアドバイスは自然と信用が出来たのでそこは守る事にする。
 それに失敗しては材料の無駄にもなるし、何よりレオナルドの元へ行くのに遅れてしまう。
 鍋を火に掛けながらそこまで考えて、またレオナルドの事を考えていたと気付き顔を覆う。
「俺どんだけあいつの事好きなんだよ……」
「キュ?」
 ソニックがザップの頬をぷにぷにと小さな手で押した。
「おめぇに同情されたくねぇっつーの」
 鍋の前で待つこと暫し、ふつふつと煮立ってくる。
 弱火にしてから取り出したスプーンでそっと全体を掻き混ぜて蓋をずらす。
 後は四十分ほど煮込めばいい。
 スマートフォンでタイマーをセットして、待つ間にソニックが食べ残したシリアルバーを食べながら、軟水とはやはり違うものなのか気になったザップはまだかなり残っている大きなボトルに口を付けようとして――躊躇ったあとに自分用のマグカップへと注いだ。
 一口。
「うわ、何だこれ」
 大した食生活をしていないザップでも、その口当たりが全然違う事ぐらい分かった。
 軟水というだけあって本当に口当たりがまろやかだ。
 水なんかどれも一緒で、違いがあるとすれば人によっては硬度の違いで腹を壊すぐらいだと思っていた。
 その考えは覆された。
「やっぱりどれも一緒ってわけじゃねぇのか」
 ザップは元々この地域に居た訳ではないので元々紐育が日本より軟水であった事を知らない。
 アメリカの土地は広く、軟水の地域もあれば硬水、超硬水の地域もある。
 異界と繋がり、ぐちゃぐちゃに引っ掻き回された影響で水脈なども変わり、水の硬度も変わってしまったのだ。
「こりゃ確かにどれも一緒とか言うと怒られちまうな」
 ちびちびとマグカップのぬるい水を飲みながら部屋に置いてあった雑誌を片手に暇を潰す。
 時折暇そうなソニックがちょっかいを出しにくるが適当にあしらう為に、血法で蝶をひとつ作り出した。
 シナトベの様に風は出ないが漂わせる事は出来る。
 自分に繋がる糸を細くすれば蝶だけを浮き上がらせる事も出来ない訳ではない。
 しかし糸を細くすると蝶の質量を支えられないのだ。
 考えながら蝶の内部を空洞にして構成していく。
 軽く、軽く。繋がる糸を細く。
 が、やはり蝶の方が重いのかあまり上には持ち上げられない。
「何でこんな所で技術磨いてんだ俺は……」
 一人でツッコミながら糸の方を元の太さに戻して蝶を漂わせる。
 案の定ソニックはそれを捕まえようとザップの周りをぴょこりぴょこりと跳ねまわった。
 そうしていても正直、あまり暇潰しにはならないので、タイマーをセットしてテーブルに置いていたスマートフォンをザップは手に取った。
 メッセージアプリでレオナルドに『生きてるか?』と送信する。
 あちらも寝ているだけで暇をしているのだろう、返事は程なくして返ってきた。
 『縁起の悪い事言わんで下さい』と。
 生存確認は大事なのだ。
 『ひま』と打ち込めばレオナルドから『僕も暇です』と返ってくる。
 まあ、返事が出来て、暇だと言えるぐらいには症状が落ち着いているのだとザップは喜んだ。
 自分の時はもう暇とも言えないほどボロボロだった記憶があるのでそれが無いのならと安堵する。
 取り留めない会話が続き、昼の時間だと写真が送られてくる。
 ぽつんと皿に入れられたドロドロとしたスープの様な物。
「あぁ……」
 これを見ただけでザップは自分の食欲が無くなっていく様だった。
 思わず息が漏れ、集中力が切れてするりと糸が還る。
 突如追いかけていた蝶が無くなり、ソニックが何事かとザップの肩まで戻ってきた。
 一緒になってスマートフォンの画面を覗き込む。
「レオの飯だってよ」
 缶の栄養剤よりはうんとマシだ。
 でも、『マシ』なだけ。
 あまり不味いだの何だのと言うと栄養士が怒るのだろうが。
 『無理して全部食べるなよ』と送信してからまた暫くして、タイマーが鳴った。
 コンロまで移動して、鍋の蓋を開ける。
 米の匂いが広がった。
 懐かしい香りにも感じる。
 ぱっと見は乳白色の液体。
 沈んだ米をスプーンで掬って、よく吹いて冷ましてから一口。
 食感はほぼ無いに近い。まさに『飲む』感覚だ。
 柔らかさに関しては問題が無いので火を止める。
 もう一口。
 ほのかな甘み。
 このままでも十分食べられるがさすがに物凄い薄味。
 最後に塩を入れると書いてあったのだが、きっと塩分は少ない方がいいだろうとひとつまみだけ入れて、掻き混ぜる。
 塩も日本の物を購入した。
 『HAKATA NO SHIO』と書かれたもので、向こうでも有名なメーカーだそうだ。
 そして更に一口。
 塩分が手伝って甘味が更に強くなる。
「俺、やっぱり天才じゃね?」
 上機嫌になって鼻歌混じりにフードコンテナを手に取ろうとするザップの腕にソニックが着地した。
「あ、食わしてやるって言ったな。そういや」
 小皿に移してよく冷ます。
 ソニック用の小さなティースプーンを渡せば器用に掬って、恐る恐る一口。
「キィ~~?」
「食感ねぇよな。味も薄いし。でも今のレオはこんぐらいしか食えねぇんだよ」
 グリグリと小さな頭を撫でて、ザップは再びジャケットを纏う。
 フードコンテナに粥を流し込んで、残りを慌ただしく自分の胃袋に収めてから逸る気持ちを抑えつつ、急いでソニックと共にランブレッタに飛び乗った。


「よお」
「あれ?もっと遅くなるんじゃ……」
「まあ、予定が変わる事もある」
 ドヤ顔で言えば「なんすかそれ」とレオナルドは笑う。
 それを見ただけでザップの心は躍り、頬が緩んだ。
 その嬉しさを表現する為に無言で癖毛をわしゃわしゃと掻き回せばここが病院だと忘れてしまいそうだった。
「ちょっとやめて下さいってば、僕病人ですよー」
 間延びした声でもっと優しくするように入院患者である事をレオナルドはアピールした。
 ザップは秘密結社の戦闘員で、その力は認められた存在だ。
 本来だったら忙しいはずなのに、合間を縫って自分に会いに来てくれる。
 それを思えば憂鬱だった気分は吹き飛び、そしていっそ気持ち悪いくらいに甘えたい欲が芽生えるのだ。
 ザップはトゲトゲしく接する事もあるが、こちらが甘えたいと匂わせればいくらでも甘えさせてくれる。
「そういえば昼飯はちゃんと食えたか?」
「まあ、一応」
「なんだ、一応って。食ってから具合悪くなったのか?」
「いや、それはないんですけど。ザップさんの言う通りあんまり美味しくなかったです……なんか、胃に溜めるだけっていうか……あとちょっと物足りないかな」
 一瞬何かあったのかとザップは真顔になったが具合が悪いわけではない様だったので心の内で安堵の溜息をついた。
 そして更に、「物足りない」という言葉に喜んだ。
「多分あんまり量食べるといけないから少ないんでしょうけど」
「でも足りねぇと思ったら少しぐらい食べてもいいと思うぜ。まあ、今足りねぇってんならこれ食べろよ」
 ザップはコンビニの袋から無造作にネイビーカラーのフードコンテナを取り出し、スライドさせてきたテーブルの上に置いた。
 そして使い終わったばかりであろうスプーンを備え付けのチェストから探し出す。
 それを片手に持ったまま、やはり食事制限がある患者に勝手に物を食べさせるのは後ろめたいらしく、カーテンを引いて行く。
「え?えぇ?」
 困惑するレオナルドを余所にザップは「起きれるか」と聞き、了承を得るとリクライニングのスイッチを入れた。
 内臓の痛み具合によっては長く座っている事は負担になる。
 手早く枕を頭から腰にやって無言でスプーンを渡した。
「ザップさん……今日怖いぐらい優しい……」
「んだとぉ?ザップさんは『いつでも』優しいの間違いだろ?」
 丸椅子を寄せてどかりと座ると早く食べろと視線を投げる。
 そっとフードコンテナの蓋を開けると湯気が上がった。
 このところ生ぬるいものばかり食べていたレオナルドはそれだけで感動する。
 そしてこれはカーテンを引いても匂いでバレてしまうのではないかと気付いたが、そこに気付かなかったザップが間抜けで愛しかった。
「これ、ザップさんが?」
「おう……」
 視線を返すと逸らされてしまう。照れている様だ。
「頂きます」
 レオナルドは頬を緩々にしながらスプーンで中身を掻き混ぜて掬い上げた。
 とろりと乳白色のそれを冷まして口に運ぶ。
 中国の朝粥の様だが具が入っていないのと、かなり柔らかくて水分が多い事に気付く。
「これ、粥ですか?」
「おう。三分粥」
「三分?」
「病院食とかの粥は段階があるんだってよ。これはその中で一番やわらけぇやつ」
 説明されて、レオナルドはもう一口啜った。
 温かさがじんわりと体に染みていく。
「これ、何となく甘いですけど、味付けなんですか?確かチャイナタウンで食べた朝粥とかってもっと具とか乗ってるやつだったと思うんですけど」
「おう、それとはまた違うやつ。こらぁ日本の一番シンプルな粥だ」
「日本の?……じゃあこれはお師匠さんの味?」
 レオナルドの考えが行きつくところはそこだった。
 ザップはよく日本の食べ物の話題を出したりするところが多い。
 それはきっと修業時代に彼のお師匠が教えた可能性が高いのだ。
 ということは、この味はザップが過去に食したもの。
 あまり知らない事を一つ知れた様でレオナルドは歓喜した。
「こんなにしゃばしゃばのじゃなかったがな。あと、ちょっと塩辛くて酸っぱい実を入れて食うんだ。さすがにそんなもん食べさせて具合悪くなったら怖ぇから今日は塩しか入れてねぇ」
「塩だけ?へぇーこんな味になるんだ」 
 一口、二口、味は薄いがさっき出されたペースト食よりもすいすい口に入っていく。
「……うめぇか?」
 テーブルに頭を乗せて上目使いに聞いてくるザップがあまりにも可愛くて、レオナルドは思わず目を開きかけた。
「はい。ありがとうございます」
 今日は何時までいるのだろうか。
 聞きかけた矢先、ザップのスマートフォンがバイブレーション音を響かせる。
「あ、わりぃちょっと出るわ」
 バタバタと彼は部屋を出て行った。
 クズなのに病院のマナーを守るのは自分が世話になってるからだろうかと苦笑しながらレオナルドはちびりちびりと粥を啜る。
 きっとこれはザップが誰かに教わって、自分で材料を調達して、煮込んで自分の為に作ってくれたのだろう。
 作っている姿を想像するだけで胸がいっぱいになる。
 来てくれるだけでも嬉しいのに、思いがけず手料理を貰う事になるなんて。
 どうしようもなく嬉しくて嬉しくて、ニヤニヤと口角を上げたままレオナルドは噛みしめる様に粥を食べる。
「愛されてんなー。へへへ……」
 いつの間にかやって来ていたソニックが笑うレオナルドの事を不思議そうに見ていた。

「そんなご大層な要件でもねぇけど招集掛かったから行くわ」
 通話を終えたであろう戻って来たザップは丸椅子をどかしながらそう告げた。
「あ、ちなみにその容器、姐さんが見舞いにって買ってくれたやつな」
「え!?そうなんすか?」
「でなきゃ俺がこんなん買うと思うか?」
「まぁ……そうっすね」
「全部無理して食うんじゃねぇぞ。また時間あったらそれ取りに来るわ。それから、サルの奴事務所に出入り出来てないらしくてちょっと食いっぱぐれかけてたぞ」
 ザップが指を指すとソニックは自分の事を言われてるのかと首を傾げた。
「あれ?クラウスさんに一応頼んでおいたのにな……」
「とにかく、出来たらここで食べさせてやった方がいいぞ。じゃあな」
「あ!ザップさん!」
「何だ?」
「ありがとうございます。あと、気を付けて」
「おう」
 ザップが半歩出した足を戻して、レオナルドに押し付ける様なキスを落とす。
 この後、検温に来たナースに差し入れが見事にバレた。

**********

 それから数日、来れる限りザップはフードコンテナ片手にレオナルドの元へと通った。
 器用な事に病院での食事の味付けや硬さを聞いて持ってくる粥の味付けや硬さを変えてくるのだ。
 三分粥が五分粥になり、七分になり、出汁の味が付いたり。
 時間がある時には自分の分も持参して、病室で食べて行く。
 レオナルドは予めザップに作って持ってくる前に連絡をして欲しい事と、どんな味付けの物が食べれるのかも教えて欲しいと頼んだ。
 ザップは最初楽しみが無くなるから秘密にしたいと味を教えるのを嫌がったが、レオナルドは検査前の絶食や検査結果の数値がおかしくなってしまうからと何とか言い包めた。
 ナースにバレてしまった事は秘密にしてある。 
 刺激のある物や濃い味の物でないので食べれた方が回復にも繋がるととりあえず様子を見ながら、万一の時はストップを掛けるということで病院サイドにはこっそりと了承を得た。
 それどころかザップが慌ただしく粥だけ置いて帰った日には興味を持った栄養士がやってきたりと、本人が聞いたら恥かしがってもう差し入れをしてくれそうにない事態に陥ってしまっていたりする。
 何故ここまで配慮して貰えるのか。
 それはひとえに『イケメンチンピラが甲斐甲斐しく手料理を持って見舞いに来るのが堪らん』というギャップ萌えがナース達の間にあるからだった。
 平和である。

 ザップはと言うと『美味しい』と喜んで自分の料理を食べるレオナルドが可愛くてすっかり餌付けするかの様に粥作りにのめり込んでいった。
 清々しいまでの研鑽であると、本人は気付いていない。
 最近ではソニックが味見をしてからサムズアップまでしてくれる。
 少しずつ液体の比率が少なくなり、食べれる物が固形に近付き、多少濃い味が食べられるようになってくるとより一層作り甲斐があった。
 材料費は粥のヒントをくれたり、作り方を教えてくれた愛人たちに作って持って行ってやると驚くほど喜ばれて小遣いを弾んでくれたので、それを元手に。
 正直、笑いが出そうな程の額が貰えたので料理が出来る男ってのはこんなにモテるのかとザップ自身も驚愕した。
 また、勝手にレオナルドの部屋で調理している事が知れてしまい、一度だけ光熱費の心配をされたので愛人に相談したこともある。
 料理の上手い愛人はフードコンテナでも出来上がった熱々の物を入れておけば時間経過で調理が出来ると教えてくれた。
 そんな事も出来るのかとまた新しい知識を仕入れたザップは興味が湧いてレシピを調べてみる。
 その延長線上で保温調理の出来る鍋という物もある事を知って、これだったら煮込み料理全般にも使えると考え始めた。
 実際の思考時間はあまりにも短く、喜んで自分の料理を食べるレオナルドの顔をこのところずっと見ていた所為で幸せ過ぎてやや脳内がお花畑だったという事と、少し値は張ったが懐具合も良かった為に勢いでその保温調理鍋をザップは購入した。
 なるほど使ってみると便利で、数分加熱してから鍋ごと保温容器に入れて放置しておくだけで火の心配もなく粥が出来上がる。
 そんなこんなで住人の居ない間にレオナルドのキッチン周りだけはおおよそ貧乏をしてるとは思えない程ハイソになっていた。
 譲って貰ったり買ってきた調味料の数々、メンテナンスをしていなかった物を見兼ねてザップが研いだ切れ味プラスのペティナイフ。
 帰ってきたらどんな顔をするのだろうかと様変わりしたキッチンを眺めながらザップは頬が緩むのだった。
 

「はぁーい、レオっち」
「こんにちは。レオ君」
 比較的静かなある日の午後、レオナルドの元にK.Kとツェッドが訪ねてきた。
「あ、どうもっす。今日は何もなかったんすか?」
「あったにはあったけど、もう終わって、その帰り。ほら、ザップっちがしょっしゅう来てるからアタシ達は遠慮した方がいいかなと思ったけど、それでお見舞いに行かないのなんか薄情じゃない?で、これ差し入れ。ゼリーぐらいならいけるわよね。食べましょ」
 にこやかにK.Kが手にしたビニール袋を揺らした。
 
「顔色も良さそうで安心したわ」
「わざわざすみません……それから、お見舞いの品ありがとうございました」
「いいのよいいのよ!面白いもの見れてるし!」
 スプーンを揺らしながらK.Kは眉を下げた。
 あれからザップは言われた通り少量だけ欲しい調味料などをK.Kに分けて欲しいと気恥ずかしそうに告げたのだ。
 その場所が事務所だった為に案の定皆から揶揄われてしまったが、その時は余程辛かったのか子供みたいに拗ねて飛び出してしまったのでそれ以降はあまり弄らない様にとリーダーからお達しがあった。
 特にチェインの弄りようはかなりのものだったらしい。
 ちょっとやり過ぎたと反省して、普通に接してやるとザップは試作を持って事務所に顔を出す様になる。
 それが実に可笑しかったがそこにあまり触れるとまた事務所を飛び出し兼ねないので、皆腹の内や本人が居ない時の話題にしていた。
「そういえば今日ザップさんは?」
「兄弟子なら事後処理です。レオ君が入院してから事務所待機を断り続けているのでいい加減スティーブンさんに怒られて」
「あちゃー……すみません……」
 レオナルドは顔を覆った。
「別にレオっちが謝る事じゃないわよ。ザップっちも呼び出しあったらちゃんと来てるし、アタシとしては別にいいとは思うんだけどね。スカーフェイス的には良くないんでしょ」
「まぁ……一応、上司命令に違反してますからね……」
「ところでレオ君、ひとつ聞きたかったのですが、兄弟子の作る粥の中でどれが好きですか?」
「あー……」
 何気ないツェッドの質問にレオナルドは呻いた。
 ザップの作るものなら何でも美味しいのだ。
 もうこれは惚れた弱みである。
「あははっ、レオっち困ってる!そうよね、そうよね、きっとレオっちの中ではどれも美味しいんだもんね!」
「どれも、ですか?」
「そうっすね」
 照れながら、笑顔でレオナルドは返事をした。
「そりゃ、好きな相手に手料理作って貰って見舞いに来られたらどれも美味しく感じるわ。まあ、実際ザップっちのは意外にきちんと作ってるからどれも美味しいんだけど」
「そうなんですよー!あの人料理出来てって、へっ!?すすすす好きな相手!?」
 一人で百面相の様なリアクションをするレオナルドをK.Kとツェッドはポカンと見つめた。
「あの……レオ君?」
「まさか、皆知らないって思ってる訳じゃないでしょうね?」
「へ!?えええええっ!?」
「レオ君落ち着いてっ」
「むぐっ」
 病室である事を忘れる程動揺しているレオナルドの口にツェッドは自分のゼリーを一口放り込んで無理矢理黙らせた。
 付き合いが長くなるにつれて少しだけ扱いが雑になった気がするとK.Kは二人を観察しながら思う。
「んぐっ……あ、すみません……」
「アンタたち黙っててバレてないって思ってたのかもしれないけど、周りから見てもバレバレよ?特にザップっち見てたら、御馳走様を通り越して胸焼けするわ」
「そうっすか……」
「でもまあ、ああやって一生懸命なザップっち見てると可愛いわよねぇ~そこは分かるわ」
 正気に戻ればしょんぼりとしてしまったレオナルドの頭をK.Kは慰める様に撫でた。
「堂々としてなさい。別に何も言ったりしないから」
「……本当っすか?」
「……多分ね」
「ツェッドさんは?」
「え?」
「ツェッドさんは僕とザップさんが付き合うのはどう思ってるんですか?」
 普段三人で一緒にいる事が多いからこそ黙っていたというのもある。
 友人関係のバランスが崩れそうだと不安を抱いていたのだ。
「兄弟子がレオ君の嫌がる事をしているようなら口も挟みますが、そうでないなら僕がとやかく言う事は無いと思ってます」
「よく言った!偉い!」
 べちんと音がなるほどK.Kはツェッドの肩を叩き、称賛した。
「でもそんな話は、レオっちが退院したら三人でランチにでも行って話すればいいじゃない。でないと除け者にしたらザップっち怒るわよ。あの子そういうところ凄い子供だから」
 家庭持ちは見ているところが違うなとレオナルドもツェッドも思った。
 ザップの過去は知らないが、時折見せる妙に子供じみたところは年相応の頃、そういった事が出来なかったのではないかと周りも何となく察しているところだ。
「で、話逸れてるわよ~このままいくと辛気臭くなりそうでヤダ!無理矢理戻すわよ。アタシはね~トマトリゾット風が好き!」
「……そうですね、僕は一番シンプルなやつがよかったです。懐かしくて。でもミルク粥、ですか?あれは驚きました。こういう物もあるのかと」
「地域によっては割と食べられてるのよ。甘い粥を食べた事がない人にはちょっと馴染めないだろうけど。ユキトシがそうだったわね」
 二人が話している間にレオナルドは真剣に考える。
 本当にどれも自分を想って作ってくれたもので、好きなのだ。
 あまりにも味が薄いからと出汁を使った物を持ってきてくれた事があり、あれもシンプルで美味しかった。
 その次はフワフワした卵粥、凄く優しい味だった事をレオナルドは覚えている。
 中華粥はスープの味を変えて、固形混じりの物も少しずつオーケーが出されるようになると具にバリエーションが増えていった。
 最初はトマトベースでしかなかったリゾット風のも細かく刻んでトロトロに柔らかくなった野菜が入って美味しかった。
 ミルク粥、何味がいいのかと甘いソースやらシナモンを付け合わせに持ってきた時は驚いた。
 地域で色々な物があるのだと知った。
 また、リクエストして同じ味が食べたいと言うと笑ってまた作ってきてくれる。
 そこでふと、ひとつあったなと思い出す。
「あ……僕あれ、草?野菜?が入ったやつが素朴な感じで好きでした。もっと苦かったりするのかと思ったら甘味があって……」
「あぁ!」
「七草粥、の事ですかね?」
「そうです!」
 その事を話せばK.Kは「あれはウチの旦那が教えたのよ」と笑う。
「日本じゃ、食べるのは年一回で、しかも地域によって使う具材も味付けも全然違うっていうから、じゃあ一番シンプルなのにしましょうって。あ、でもお正月に食べ過ぎた胃を整える為っていう意味もあるから、体を気遣った食べ物よね」
 そして具材を集めるのが大変だったと二人は語った。
「日本でも年に一度しか食べない食材が此処で手に入るわけがなくてですね、結局クラウスさんに相談して、お友達の園芸サークル仲間まで巻き込んでました」
「そうそう、菜園やってる人とかに聞きまわって。同じ物は揃わなかったけど、近い物は何とか集まったのよね」
 そんなことおくびにも出さないでザップはいつも通り持ってきていたのかとレオナルドは目を丸くする。
「あれ?聞いてない?」
「はい……だっていつも通り普通に持ってきて食べろって言うだけでしたよ」
「あの子らしいわねぇ~」
「しかし兄弟子は何故そこまでしてレオ君に粥を食べさせるのでしょう?最初、レオ君が病院に運ばれたって聞いた時もかなりの剣幕でしたし」
「それね、きっと自分が経験して辛かったからよ。此処が崩落してライブラがようやく軌道に乗り始めた頃だったかな……」
 食べ終わった容器とプラスチックのスプーンをビニール袋に捨ててから、K.Kは話し始めた。
「ザップっちね、今回のレオっちみたいに怪我は少なかったんだけど、体強打してド派手に内臓痛めたの」
「……」
「それこそ点滴が何日か続いて、チューブでの栄養剤になった時は吐き気が凄くてずっと苦しかったらしいわ。それから栄養剤の経口摂取になって、これで元気になるかと思ったんだけどそこからが大変だったの」
 K.Kは眉をしかめた。
「かなり具合が悪かったのもあるんだけど、治療に使ってた薬との相性も悪かったらしくて口から摂るとその……気分が悪くなって食べられなかったのよ。元々細い体なのにみるみる痩せていって……」
 自分よりもうんと重症だった事にレオナルドはショックを受けたと同時に、初日見たザップが何故あんなにも複雑な表情をしていたのか理解出来た。
『内臓がダメになってて大丈夫じゃねぇだろ……』と言われた時の事が甦る。
 今にも泣き出してしまいそうだった。
 ザップは間違いなく、過去に自分が経験した辛さをレオナルドに重ねたのだ。
「あの頃はライブラもまだ人手とか十分じゃなくて、組織内の機能も手探りでさ、アタシたちも忙しくてなかなか病院まで行けなかったのよね。行けたとしてもザップっちはぐったりしてるからこんな風に談笑なんて出来ないし、こっちが見てるの辛いぐらいだったから足が向かない日もあったわ。今思うと可哀想な事をしたわね……」
 酷く落ち込んだ声と共にK.Kは息を吐いた。
 だからあんなにも必死に、時間を割いて甲斐甲斐しく粥を届け、『美味いか』と来る度に尋ねていたのかと思うとレオナルドは胸が締め付けられる様だった。
「いっそチューブで流し込んでた方がよかったって言ってた事もあったわね……それから何とか口で食べられるようになっても具合が悪くなるんじゃないかっていう不安が強くて、今みたいにジャンクフードとか重い物食べるのなんて以ての外だったの。退院しても体力が削られてるから事務所で寝泊まりして、見兼ねたギルベルトさんがあれこれ工夫した食事を用意したりしてかなり時間を掛けて元の体重に戻したのよ」
 話は終わったようで、暫し沈黙が落ちる。
「……ごめんね、辛気臭い話が嫌だったのに結局こんな話しちゃったわ……」 
「いえ……そんな……」
「聞かせて貰って何故兄弟子が必死だったのか合点がいきました。我々の修行は本当に過酷だったので技術の向上と、食べて体力の回復に努めねば死に直結します。余裕の無い時は本当に空腹を満たすだけですが、それでも食べる事は楽しみであり生きるという事なんです」
 ツェッドの瞼の無い眼が少しだけ揺らいだ様に見える。
 一呼吸置いて、彼はこう言う。
「……兄弟子はその時、きっと唯一の楽しみであった食事すらも満足に出来なくて辛かったのでしょう……」
 口に入れ、喉を通ってからの拒絶反応が怖くて、食事が楽しみで無くなるという事はどんなに辛いのか。
 食べる事は即ち、生きる事だが、そこに楽しみの無い食事は果たして心を満たしてくれるのだろうか。
 ザップは恐らく、それをレオナルドに経験させたくなくて、奔走した。
 しかし、本当のところは無意識にレオナルドの心を守りたかったのかもしれない。


 レオナルドはK.Kとツェッドを見送り、窓を少しだけ開けて外を眺めた。
 もうすぐ夕方だ。
 今日もよく分からない異界生物が空を飛んでいる。
 そこに白い残像が横切り、瞬きをした次の瞬間窓辺にソニックが居た。
 口の周りがほんのりオレンジ色をしていて、レオナルドはちょっと笑ってしまう。
 ソニックが来たという事はもうすぐザップがやって来る。
 あんな話を聞いた後だから、ちょっと違う目で見てしまいそうだが本人はそれを絶対に嫌うのでそっと黙っていようと決心した。
 
「遅くなっちまったわ。今日は番頭に絞られてよぉ……」
「聞きましたよ。事務所待機って言われてたのにずっと守ってなかったんでしょ?ツェッドさんから聞きました」
「……魚類来てたのか」
「はい。K.Kさんも来てましたよ。ゼリー貰いました」
「俺の分は?」
「冷蔵庫の中です」
 当たり前の様にザップは尋ねてくる。
 それに当たり前の様に答えている自分の事がレオナルドは何だか可笑しかった。
「やりぃ」
 喜ぶザップに自分の事は棚に上げたまま「本当に中身は子供だな」と内心苦笑してレオナルドはカーテンを引き、ベッドへ戻った。
「今日はリクエスト通りトマトリゾット風だぞ~。ありがたく食え~」
 ザップはフードコンテナを二つ、袋からテーブルに出しながらまるで鼻歌でも歌い出しそうなぐらい上機嫌に告げた。
 きっと美味しく出来たのだろう。
「後にすっか?時間中途半端だしよ」
「そうっすね、もうちょっと後で。ザップさんはお腹空いてるでしょ?食べて下さいよ」
「言われなくてもそうする」
 ザップは冷蔵庫を勝手に開けて水を取り出し、丸椅子にどっかりと座ってフードコンテナの蓋を捻った。
 ちらりと見れば叩いて埃を払ったのだろうが、まだ所々ジャケットは薄汚れている。
 そんなに慌ててこなくてもよかったのにと思いながらも、急いで準備をして来てくれた事がレオナルドは何よりも嬉しかった。
 来てくれるだけでも嬉しいのだから、万が一もっと自分が重症だったとしても、辛くはなかったんじゃないかとレオナルドは考える。
「あ、今日はこれも持ってきたぜ」
 パルメザンチーズの容器をザップは振って見せた。
 トマトの香りが広がる中、思いっきりそのパルメザンを掛けてから、スプーンでぐるぐると掻き混ぜる。
「今日は前よりも味濃くしてあるし、米もちょっと硬めな」
「はーい」
「ん?どうした?なんかあったか?」
「別に。ただ、愛されてるなって」
「なんだそりゃ。って、こらサル。お前食わしてやっただろうが。それ以上汚したらもう知らねぇからな」
 スプーンを持つ手に纏わりつくソニックを引っぺがそうとするザップだが、骨格が弱い音速猿を手荒く扱うわけがなく、どう見てもじゃれているだけにしか見えずレオナルドは笑うしかなかった。
「ほら、ソニック。それザップさんのだから。美味しかったからもっと欲しいのは分かるけどさ」
 レオナルドは自分が座るマットレスをぽんぽんっと叩く。
 するとソニックは渋々、といった様子でベッドへ移動した。
「ザップさん」
「ん?なんら?」
 もごもごと口元を少し赤くしながらザップは顔を上げた。
「明日から普通食ですって」
 もう少し何か付け加えて話そうかとレオナルドは一瞬考えたが、至極端的に言葉を発した。
 この方がストレートに伝わると判断したのだ。
 言った途端、ザップの表情が変わりスプーンを浸したままの容器を雑にテーブルへ置いた。
 ぼんやり色付いてる口元が可笑しいが、本人は至って真剣だろうからそこはツッコめない。
 椅子から立ち上がって、ザップはレオナルドを抱き締めた。
「……よかったな」
 ただ、静かに一言。
 深めに吐かれた息が、ザップの安堵具合を伝える。
 やっぱりそんなに気にしていたのかとレオナルドはそっとザップの背中に腕を回した。
 ザップの粥が食べたくて、会いたくて、嬉しくて。
 でもこんなに張り詰めていたのなら、もっと早く大丈夫だと伝えれば良かったなとレオナルドは少しだけ後悔した。
 口には出さず謝って、いつか恩返ししようと心に決める。
「って事は明日から差し入れいらねぇな」
 体が離れ、ザップは椅子に座り直して容器をもう一度手に取ってからやや寂しそうにそう告げた。
「その事なんですけど、退院したらですね――」
「え。お前そこでフラグ立てんの?まあ、立てても俺がへし折るけどよ」
「いやいやザップさん最後まで聞いて」
「おう……」
「退院したら一緒に住みませんか?俺、もっとザップさんの料理食べたいし、一緒に料理作ったりもしたいんで」
 ポカン。
 そんな効果音が聞こえてきそうなぐらいザップの目は点になっていた。
「ザップさん」
「おう」
 おそらく、この返事は自動応答だ。
 ザップ本人の脳はきっとまだフリーズしている。
「ザップさん」
「おう……」
 視線がレオナルドから逸らされた。
 これは意味が理解出来たようだ。
「俺よ」
「はい」
「今、お前んちのキッチンでこれ作ってるじゃんか」
「はい」
「ついでに寝泊りしてんだよな……」
 どんどんザップの視線だけでなく顔もレオナルドとは反対の方向へ。
 レオナルドも段々理解出来てきた様な気がして顔に血が上ってきた。
「もう住んでんのと変わんなくね……?」
 結論付ける一言に、レオナルドは何を思ったか『そうですね、御馳走様です』と言いたい衝動に駆られた。
 何が御馳走様なのか茹ったレオナルドの頭ではもう解説出来ない。
 ザップはもう住んでいるつもりなのだ。
 ただ、そこに家主であるレオナルドが不在なだけ。
 これは早く退院しなければ、とレオナルドは自分を奮い立たせた。
 しかし『じゃあオーケーなんですね?』と言葉が出てこず、反射的にレオナルドはベッドから身を乗り出しザップを引き寄せて口付けをする。
 トマトの味がした。

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