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AM 7:00起床。まだ眠い目をこすって起き出して、ザップさんが泊まった朝はスープを作る。


にんじんは少し大きいさいの目に。じゃがいもは溶けちゃうから入れない。今日はベーコンがあったな。この前スティーブンさんからもらった上等なやつだ。冷蔵庫の隅っこにある真っ赤なパプリカもいれよう。しなびかけてるピーマンも。熱を加えても色が変わらない野菜は大好きだ。きゅうりはどうだろう、このキノコは…なんだか茶色が溶け出しそうだけど、食感が独特だから入れてみる。大事なのは味じゃない、見た目と食感。
ざくざくとナイフで刻んだ野菜を、沸かした湯の中へ。フタをしたらもう一度沸騰するまでそのままで。味付けは最後にあっさりと。

両親とミシェーラと暮らしていた頃はまったく料理をしなかった。HLに来てからも、外食ばかりだった。この街では自炊の方が高くつく。
小さな流しの横の、ほこりをかぶって放置された一基だけの電熱器。壊れかけたこれのスイッチを入れたのだって、この部屋に住み始めてから1年以上経った、つい数か月前のこと。
あのころの僕はちょっとおかしかった。率直に言うとイかれていた。
キッチンというのもおこがましい狭さと乏しい熱源とを使って、ありとあらゆる料理を試作した
焼いて茹でて煮て炒めて、刻んで潰してすりおろして。
HL中のマーケットをあさり、様々な国のレシピを調べ、できることとできないことの限界にすら頓着せず、手当のほとんどを食材につっこみ、バイトをサボり寝る間を惜しみ、料理にすべてを捧げた数週間。
その結果、なんとかおいしく作れるようになったのがこのスープだ。
ただのスープと侮ることなかれ、調味料を変えるだけで幾通りものバリエーションがつけられるんだからすごい。簡単なのにほんとすごい。
今日は透きとおったコンソメだけど、トマト缶を入れた赤いのとか、ターメリックで黄色くしたのとか、牛乳を入れた真っ白でまろやかなスープだって作れる。具材はその時のスープの色味によって決めている。真っ白なスープに赤いパプリカと食用のピンクの花びらが浮いていた時は、あまりのロマンティックさに食卓が無言になったっけ。

おんぼろの電熱器が金属的な悲鳴を上げ出すころ、ようやく湯が再沸騰した。大きめに刻んだ野菜たちがほどよく柔らかくなったのを確認して、スイッチを切る。薄いグリーンのボトルに入った無添加のコンソメは、KKさんのおすすめだ。湯量に合わせて、きっちり計った分を溶かし込む。毎回味見はしてるけど、これが正しい味なのかは正直わからない。
ただ野菜を切って煮ただけの、素朴で簡素なスープ。

朝もやが薄まって、向かいのビルに反射した日が差し込む。眩しさに目を細めながら出来上がりをそのままにコーヒをいれていると、匂いに誘われたのかザップさんが起きてきた。前屈みのままふらふらと、剣呑な唸り声とともにバスルームに消える。
二日酔いがキツそうだけど、自分から起きてくるなんてめずらしい。
とくに飲んだ日の翌日は、ゆすっても叩いても起き出さない。無理に起こそうとすると血法を駆使して襲いかかってくるんだから始末におえない。
あるときあんまり呆れた僕は、自分で起き出してくるまで放っておくことにした。朝食も無視して、仕事に行く時も声をかけなかった。徹底的に放置したら、結局その日はライブラにも来なかった。どこか愛人さんのところにでも行ったんだろうと思って家に帰ったら、朝出て行った時とまったく同じ格好のままベッドの上にいた。ムキになりすぎて起き出すきっかけがつかめなかったらしい。しかも僕の顔を見たとたん、子供みたいに大声で泣き出したからびっくりした。かまうとうざかるくせに無視すると拗ねる。僕の先輩は、いったいいくつなんだよ。
コーヒーを飲みながら鍋をどかし、ふたたびつけた電熱器で硬くなったパンを炙る。こうして温めたパンをスープにつけて食べると食感が変わっておもしろいというので、毎回そうしてる。
スープをよそう磁器はクラウスさんからのもらいもので、乳白色で薄い上等なそれによそうと、簡素なスープもとても美味しそうに見えた。
炙ったパンはこの前買った皿にのせよう。ミシェーラの好きそうな、青い模様がかわいい分厚いやつ。パンの白がとても良く映えるのだ。

昨日飲み散らかしたテーブルをざっと片付ける。食べかけのピザをラップして冷蔵庫にしまい、飲みかけのまま放置されたビールは流しへ。とゴミをまとめてテーブルを拭き清めていると、ザップさんがバスルームから出てきた。朝の爽やかさなんてひとかけらもない、どす黒く緩んだ顔のままだ。シャワーを浴びたんだろう。ポタポタと水滴を撒き散らしてる水滴がきになるけど仕方ない。それよりちゃんとパンツ履いてほしい。朝から全裸はさすがにちょっと目の毒だ。

「おはようございます、ちゃんと顔洗いました? 二日酔いは? 水飲みます?」
「気持ち悪いし頭いてえ…」
「うち来る前に飲みすぎなんですよ、ほら水飲んで。吐き気は? メシ食えば治りますから、ほらグネグネしてないでちゃんと座れって」
ちゃんとした食卓なんかないから、ふたりで食事をするときは、僕が椅子に、ザップさんがベッドに座る。二度寝をきめようと倒れこむ腰回りをタオルで覆い布団を巻きつけ安定させて、どうにかこうにか座るかたちを取らせる。
間には簡素な折りたたみ式のテーブルと、代わり映えのしない朝食。いつもの朝。
「俺、9時からバイトなんで。さっさと食べて一緒に出ましょう」
「えーまたスープかよおー飽きたーーー」
「うるさい、出されたものに文句言わない」
ぶつくさと子供っぽい悪態をつくザップさんの顔は、その言葉とはうらはらに楽しそうだ。さっきよりは顔色も良くなってる。

「いただきます」
「いただきます」

両手を合わせてから食べるのは、お師匠さんの教えだそうだ。
初めて一緒に食事をしたとき、手を合わせてすんなりと背筋を伸ばした姿が物珍しくて見つめていたら、真っ赤になって罵倒された。毛嫌いしているお師匠さんの教えが無意識に出てしまったことへの照れだろう。けれどその姿勢はとてもひたむきでうつくしく思えたから、以来僕も真似をしている。最初はそれを嫌がってたザップさんも、今では一緒に声を合わせてくれる。
スープとパンとコーヒー、けして多くはない量を、ザップさんと僕はいつも通りくだらない話をしながらゆっくりゆっくり平らげてゆく。

「この前まちがえて買った鍋、クラウスさんが買い取ってくれるって」
「あれなーレオがまるごと入りそうなでっかいやつ」
「プロ仕様とかいうから騙されましたよね、仕様がプロなんじゃなくてサイズがプロ用とかね。あれレストランとかで使うやつでしょ。届いたときビックリしましたよ、棺桶が来たと思って」
「HLの通販を信用すんなって、おめーいつまでたっても慣れないね」
「そろそろ道具に凝るべきかとも思ったんですよね。そしたらもっと美味しいスープができるかもしれないし」
「道具より材料にこだわれよーたまには肉たっぷりのメシとか食わせろやー」
「文句言うなら食費ぐらい入れてくださいよ、せめて昨日のビール代払え」
「食費とかー、おれ陰毛くんの彼氏とかじゃないしー先輩だしー」
「だったら余計に払え、先輩の威厳見せろよ」
「お! この赤いやつハートの形してる! わざと?  ねえわざと?」
「あ、よくわかりましたね。愛です、それ。パプリカからの」
「ふーん、薄っぺらな愛だなー」
口にするのもはばかられるような愛人さんとのど修羅場を面白おかしく話してる時も、ライブラを震撼とさせたクラウスさんとスティーブンさんのガチケンカの真相をもったいつけながらのたまってる時も、スープはゆっくりとザップさんの口に運ばれてゆく。
その表情をこっそり観察しながら、内心ホッと息をつく。
よかった、今日も美味しそうに食べてくれてる。
じわじわとこみ上げるささやかな歓喜に、これ以上頬がゆるまないように僕はそっと視線を落とした。




ザップさんが重度の味覚障害だと知ったのは、一緒に食事するようになってだいぶ経ったころだった。

HLが割と平和だったある日のこと、僕らは初めて入った店でランチをとろうとしていた。
ジューシーなハンバーガーが人気の店で、ふたり分のそれがテーブルに運ばれてきた時、僕はバイト先の店長からかかってきた電話に応答中だった。
シフトの無理を通そうとする店長に小さな声で抗議を続ける僕の前で、ザップさんはふわふっわのバンズに17ozものミンチを挟み込んだ、出来立てのバーガーにかぶりついた。
たっぷりの肉汁がザップさんの唇を濡らす。
てらてらと光るそこを舌が拭うのを見ていると、胸のあたりが空腹とも違う切なさに締め付けられて、店長の話が一切耳に入らなくなってしまった。
僕は少し前から、この乱暴で適当でさみしがりでダメな先輩のことが、気になって気になってしかたなくなっていた。
店長との攻防に負けて通話を終えた時にはすでに、ザップさんは自分のぶんを食べ終えて、僕のポテトに手を伸ばしていた。
欲張りな手を払いのけながら、急激にせり上がってきた空腹感に押され、重量感のあるバーガーに勢いよくかぶりつく。
幾重にも重ねられたバンズとミンチと野菜を、突き立てた歯で噛みちぎってゆくこころよさのあと、ジューシーな肉汁が口いっぱいに広がって…

次の瞬間、僕は盛大に吐き戻していた。

いったい、何が起こったのかわからなかった。
それほどまでに耐えがたい悪臭と苦さと渋さ、えぐみが口の中で暴れまわり、舌を締め付け喉を圧迫していた。
何かに例えることもできないし、思い出したくもない。それほどまでに衝撃的な、まずさだった。命の危機を感じる味だった。ほんとに死ぬかと思った。
空っぽの胃は吐き出すものもないのに痙攣を繰り返し、吐き気だけが絶え間なく突き上げてくる。溢れ出る胃液と唾液、おさまらないえずき。
ぼたぼたと顔中の穴という穴から液体を垂れ流す僕に、店内は騒然となった。
パニックになったザップさんが僕の名前を呼びながら号泣してたらしいけど、ずっと背中を撫でてくれた手のことしか覚えてない。

異常の原因はすぐにわかった。
僕が食べたのは、別の席の異界人が頼んだ、異界人による異界人のための素材と味付けで調理されたバーガーだった。店員さんがまちがえて僕らの席へ持ってきてしまったのだそうだ。
運が悪いことに、注文した彼らは異界人の中でもことさらヒューマーとは懸け離れた肉体構造を持っていて、彼ら向けの料理は僕らにとっては猛毒以外の何物でもなかった。
その嗜好も真逆だったことだけが、不幸中の幸いだった。
僕が一口かじっただけで吐き出してしまったのは、その味付けが一般的ヒューマーの好みからすれば、とうてい口にしたくないような衝撃的で嫌悪を覚えるものだったからだ。それでも発作的な嘔吐は二時間はおさまらなかったし、その後も二週間は喉の奥の不快な感覚に悩まされた。もし彼らの嗜好がヒューマーと似通っていて、このバーガーが美味だったりしたら。異変に気付く前に猛毒が身体を冒していただろう。


実際、完食してしまったザップさんは、朦朧とした僕を病院に運んだあとで全身から血を吹き出し倒れた。
胃酸と異物が混じり合った結果、極めて毒性の高いガスが発生し、体内のありとあらゆるところに染み込み内出血を起こしたそうだ。内臓から溢れた血はあらゆる毛穴から滲み出て全身を染める。
もしブラッドベリ総合病院が運良く浮上してなければ到底助からなかっただろう。
損傷した内臓のほとんどを入れ替えるために一か月。絶対安静が言い渡された。
僕は死にかけたザップさんを見ていることしかできなかった。
ザップさんがあのバーガーを吐き出さずに完食できた理由にさえ、思い至らなかった。

ザップさんが味覚障害をーーそれも回復不能の、明らかに食べ物として受け入れがたいあの”異物”にさえ反応できないほどに重篤であることを、教えてくれたのはスティーブンさんだった。

「そんなの…しりませんでした」
せわしなくひとびとが行き来する病院の廊下で、意識のないままベッドに横たわるザップさんをガラス越しに見つめる。
むき出しの両手にはたくさんの管が刺さっていて、痛々しい。
かろうじて内出血は抑えられたようだが、まだ滲み出る血は止まらない。輸血をし続けてはいるが特異な血だ。どんな影響があるのかわからない。不安で不安で仕方なかった。何もできないことがつらかった。強い鎮静剤のおかげで、痛みを感じず眠れているのだけが救いだった。

「みなさんは知ってたんですか」
意図せず責めるような口調になってしまったのを、スティーブンさんは聞き流してくれた。
「付き合いは長いからね。僕とクラウスは知ってた。ギルベルトさんも知ってるんじゃないかな。
あいつ食事の時は、いっつもつまらなそうにしてたから。
何食べても味がしないっていうのはなかなか想像できないけどね。極端なからさとか苦さとかは熱やしびれとして感じ取れるらしくって、知り合った頃はゲテモノばっかり食べてたから、よく驚かされた」
一滴で常人なら悶え死ぬほどの異界産激苦ソースをひたるほどかけたり、ハバネロの50倍はからいという異界の唐辛子を何本も咀嚼してたそうだ。

ーーからいっつーのはわからねえんすけど、熱いなって感じはしますね。火薬とかも舌がびりびりして悪くないかんじーー

限界まで濃度を煮詰めたクスリも、舌に心地よい刺激があるらしい。

「あとは酒ぐらいだな、あいつがすすんで飲み食いするのは。味はわからなくても酔えるのがいいらしい。飲んだ意味がある気がする、って…味がわからないからって、影響がないわけじゃないからな。異界産唐辛子を食べた翌日はトイレから出てこなかったし、激苦ソースの後はひどいじんましんになってた」

「おかしなものを食べて死にかけたのだって、これが初めてじゃないんだよ。
さすがに心配したクラウスがザップにまとわりついて検査させたんだが、どうやら神経そのものが焼き切れているらしくて、完治も回復も見込みはないそうだ。そう診断された時も本人はけろっとしててね。そもそもうまいってのがわからないんだから、惜しい気持ちもないっすね、とか言ってたよ。それを聞いたクラウスがさらに落ち込んでね、今度こそ胃に穴を開けるんじゃないかってぐらい…」

そう語るスティーブンさんの声はいつも通りだった。淡々とした抑揚の少ない、穏やかで柔らかくて感情をうかがわせない、普段通りの声だった。
スティーブンさんたちにとってこのことは、ずっと前からわかりきってたことなんだ。
僕が知らなかっただけで。

味がわからないってどういう感じだろう。水にだって味はあるのに。
僕にはよくわからない。
味のしなくなったガムをいつまでも噛み続けているかんじだろうか。
咀嚼がただ唾液を分泌させるための行為になる感じ。ただただあこが疲れて虚しくなるあの感じ。
とてもじゃないけど1日だって耐えられなさそうだ。
ひとは快楽を感じられることしか続けられない。
味がわからなければ、食事自体を疎ましく思うようになったりもするだろう。
けれど、何回も何回も一緒に食事をしてきたのに、ザップさんは一度だってそんなそぶりを見せなかった。
僕には彼が食べることの大好きなひとに見えていた。
楽しそうにおいしそうに食べているように見えていた。
ランチの時には行きたい店を互いに言い合って、僕の部屋に押しかけてきた時には勝手にピザを注文されたりして。自分のぶんだけでは飽き足らず、僕のぶんを奪うことだってしょっちゅうだったんだ。
あのザップさんはなんだったんだ。僕が知ってる、ずっと一緒だったザップさんは。
味がわからないなんて思いもしなかった。
食事を厭う様子なんて見せなかった。
彼と一緒の時間はムカつくことも多かったけど、概ね楽しい時間だった。

でもそれは僕だけ? 僕がそうだからザップさんもそうだったと思っただけ?
どうして教えてくれなかったんだろう。みんな知ってたのに。
僕がすでに知っていると彼が思い込んでいた可能性は早々に打ち消した。
だってザップさんは嘘をついてた。ドギモを頬張って、うまいって言っただろ。チーズが好きだって言ってただろ。なんでそんな嘘を。そんなに僕には知られたくなかったんだろうか。


ザップさんが目を覚ました時、病室には僕ひとりだった。
思わず立ち上がると、虚ろな目がこちらを向いて微かに細められた。乾ききった唇に水差しを押し当てて少し濡らす。飲ませてあげたかったけど、食道も肺も傷ついているから控えるようにとエステヴェス先生には言われている。
ザップさんは何度か唇を動かすと、小さな息をついた。

「…おーう、生きてっか」
「こっちのセリフだバカ猿、勝手に死にかけやがって」
「ひでえ…おれ悪くねえのに…」

僕の精一杯の罵倒は弱々しくて震えていたけれど、返したザップさんの声もかすれていて聞き取りづらかったからおあいこだ。
それに彼の言う通り、今回の件はザップさんのせいじゃない。お店のせいだし、先に僕が口をつけていたら防げたことだ。
でもそれは叶わなかった。いろいろなタイミングが悪かった。
もっと言うなら、ザップさんの事情にまったく気づけていなかった僕のせいだ。あんなに一緒にいたのに。あんなに見ていたのに。何が義眼だ、見たいものなんて何一つ見えやしない。
だからこそ僕は自分に腹が立って腹が立って仕方がなくて、どうしようもなくつまらないことを言ってしまった。

「なんでこんな大事なこと教えてくれなかったんですか?」
ーー違う、そうじゃなくて…
「ザップさんに無理させてたんじゃないですか?」
ーーわーーーーまるでそんなことねーよって否定してほしい人間の言い草だろおおーーー
言いたいことは違うのに、暴走した口が止まらない。

「しばらくご飯一緒じゃない方がいいすかね」

……最悪だ。僕は内心で頭を抱えた。
拗ねるにしてももっと言い方があるし、そもそもそんな権利もないし、今この場で言うことでもない。
わかっていたのに抑えられなかった。
けっきょく僕は甘えているのだ。
このクズでだらしなくてみみっちくて乱暴で、誰よりきれいな先輩に。
死にかけた彼に場違いな疎外感をぶつけて、そんなんじゃねーよって、ばかだなーって慰めをかけて欲しがってる。

ザップさんは何も言ってくれなかった。
ただ疲れたような半眼でじっと僕を見つめていた。
その目からはなんの表情も読み取れない。
くだらない言いがかりをつける後輩に呆れているのか、うっとおしがっているのか。
ザップさんは小さくため息をつくと、目を閉じてしまった。疲れたんだろう、そのまま眠ってしまったらしかった。
さらなる自己嫌悪を積み重ねた僕は、ベッドサイドから動けずにいた。
穏やかに眠るザップさんを見つめ、ゆっくりと呼吸する胸元を撫でてカサついた指を握る。
こんなふうにこの人にふれたのは、初めてのことだった。
しばらくそうしていると、軽く指が握り返された。何回かまぶたが持ち上がり、またすぐ眠ってしまうようだった。
微かな呼吸音を数えながら、彼が眠りと覚醒を何度も繰り返すのを、ただただ見つめていた。いつまでも見ていられる気がした。


「おまえと食うメシはうまい気がする」
すっかり薄暗くなった病室で、ザップさんがうわごとのようにつぶやいた。
その言葉の意味が知りたくて、続きを待っていたのに、それきり何も言ってはくれなかった。
僕はどうすることもできずに夜明けまでの時間をぼんやりをやり過ごしていた。


その日以来、僕がザップさんの見舞いに行くことはなかった。

病室に行かなかった僕が何をしていたかというと、料理だ。HL中のマーケットを回り、あらゆる食材を試し、レシピを調べ、ひたすらに料理を続けた。クラウスさんに金だって借りた。
味がわからないというザップさんが、僕との食事を美味しいと思ってくれるなら。たとえ彼の味覚が治らないとしても、そう思ってくれてるなら。
彼がおいしいと思うものを、彼の身体を造るものを、僕が作りたいと思った。
味がわからないなら見た目の美しいものを、噛み締めて楽しいものを。
彼が刺激に頼らずに楽しめるように、食事をもっともっと楽しいと思ってもらえるように。

だから退院をしたザップさんが、薄情な後輩を懲らしめるためにオンボロのドアを蹴破った時、そこには睡眠不足と運動不足と大量の失敗作を処理した結果、ぶくぶくに太ってしまった僕と完成したばかりのスープがあった、というわけ。
痛めつけてやろうとした後輩の思いがけない姿を見たザップさんは、怒りと戸惑いと困惑と呆れと他にもいろいろな感情を器用に表情に乗せた後、差し出されたスープを一口飲んで、僕の大好きなあの照れたような困ったような笑顔を見せてくれた。



透明なスープに浮かぶエリンギを追っかけながら、スティーブンさんの言葉を思い出す。

君が来るまで、ザップはピザなんて食べようともしなかったよ。君と同じものを、ザップは食べたいんだろうな。

どうしてそんなことをスティーブンさんが言ったのかはわからない。
でも。
ザップさんにとって食べるということが、僕と緊密に結びついてるっていうならこれほど嬉しいことはない。
味覚を感じられないザップさんが、おいしい、と捉えている気持ちの本当の意味を、今は暴かなくてもかまわない。

いただきます、と言うたびに心の中でそっと祈る。
おいしいとしあわせが、いつまでもザップさんの中で分かち難いものとしてあり続けますように。僕と一緒に食べるものすべて、おいしいと思ってくれますように。












 

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